快楽を求める。

じぶん調整


快楽を求める。

快楽を求めよう。

・・・か、快楽っ?
別にそれは、”酒池肉林”を求めろということじゃない。

人間の一番根源的な感情は「快」か「不快」か。

赤ちゃんも最初は、快か不快かという感覚だけで生きている。
快か不快かは、もっとも本能的な感情で、しかも大切なものだ。

赤ちゃんが快か不快かを訴えることは、私たち親に、
「生きる」ために必要なものを求める、大切な情報になっている。

生きるために必要な
食も、
睡眠も、
排泄も、
愛情も、

みんな、「快か不快か」で、察知できるようになっている。
本能が求めるように出来ている。

改めて、人間ってすごいなぁ、よく出来ているなぁ、
と関心しちゃう。

私は今まで、つい、「正しさ」や「理想」を求めて生きてきた。

でもそれって、時に苦しく、
時に、人を責めるものだ。

・・・「正しさ」は、人を責める武器になる
自分を責めることも、周りを責めることもできる。

そもそも、絶対の「正しさ」も完璧な「理想」も、
この世には存在しないものなのにね。

ある基準やものさしで判断して、
「正しさ」や「理想」を言っているだけ。

人間に本当に必要なものは、
ものさしを外した、シンプルな状態で、
「快か不快か」を考えたらいいのかも知れない。

私のその目標は、
魂から、喜べることなのかな。
その行動に、「快」を感じることはできるのかな。

自分が、心から楽しい!と思えること。
家族や周りの人たちにも、楽しさを与える生き方。

それは、表面的な「娯楽」を指すのではなく。
自分勝手な、「都合」を求める生き方でなく。

神様が設定した、自然に沿う「快・不快」をシンプルに感じる。
シンプルに求める。そんな生き方だ。

快楽を求めることは、決して間違っていない。

 

四葉さわこ

四葉さわこ

公認心理師。愛着トラウマが専門。カウンセリングルーム「アイバランス」代表。

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