誰だって、誰かに認めてもらいたい。
私の場合はそれが、「勉強」「優等生」だっただけ。
誰だって、承認欲求がある。
前回の記事【7】の続きです。
【7】「優等生意識」を持ったきっかけ
【8】「勉強できる」が、唯一の承認欲求を満たすこと。←本記事
【9】優等生ぶってると、叩かれる。いい気になるな。
【10】「できて当たり前」が叶わなくなった時。
誰だって、誰かに認めてもらいたいんですよね。
「承認欲求」って、
時々、悪いことのように言われますけど、
(例えば、書籍「嫌われる勇気」では、
承認欲求を持つことを否定しています)
私は、承認欲求って、
社会的動物にとってはもう、生理的欲求みたいなもの
だと思うんです。
マズローの欲求5段階説では、
愛情欲求と承認欲求が下図のような位置にありますけど、
いやいや、
一番最初の生理的欲求に入れてもいいくらい、本能的な欲求だと思っています。
ここでは、愛着や愛情を求めるようなものも含めて、
広い意味で「承認欲求」という言葉を使いますが、
人間は、社会的動物である以上、
これがなかったら生きていけないくらい、
求めてやまない欲求です。
だから、誰しも大なり小なり持っていて、
持っているのが当たり前。
それが、承認欲求なんです。
私にとっては、唯一の満たしてくれるもの
こちらの記事↓で書いたように、
子どもの頃の私は、
見た目では全く勝負できない、可愛くない、
と思っていました。
可愛いか可愛くないかって、
子どもや女の子にとって、
結構大きい内容だと思うんです。
だけどそこでは、
私は全く承認欲求が満たされなかった。
ダメだと思っていた。
運動だって、そんなに得意なわけじゃない。
特別な特技を持っているわけでもない。
面白い話ができるわけでもない。
そもそも うちの親は、
全然、子どもをほめない人で。
前の記事で、勉強できた、成績良かったと書きましたが、
別にそのことで、特別親に褒められた記憶もない(※)んですよね。
※親がほめるのが苦手だった原因については、こちら
そんな中で、子どもにとっては、
生活の大部分を占める学校という場所で、
「先生の態度」「テスト」「成績」という、
分かりやすい所で評価してもらえるわけですよ。
そりゃあ、
そこに喜びや満足を
感じてしまうのは、しょうがない
と思いませんか?
私にとっては、
「学校の勉強ができる」
「(先生から見て)優等生でいる」
この事は、
唯一の大切な、
承認欲求を満たせるものだったんです。
今から思えば、
それを、自信や自負に思ってしまって、
何が悪い?と思いますね。
なのに、素直に受け取れない。
これは次の記事で書きますが、
なのに、私はどうしても、
「勉強できる」とか
「優等生」とかいうキーワードについて、
素直になれないんですよね。
受け取れないというか、
表現できないというか、
ちょっと斜めに構えてしまう。
そんな癖がついてしまっています。
(しつこいようですが、その理由は次の記事で。)
だけどですね。
やっぱり、今、思います。
いいじゃないですか!
「勉強できる(できた)」。
「優等生」。
うんうん、
立派な長所、1つの強みですよ。
私は当時の私を、
ポジティブに、素直に、褒めてあげたい。
「いい気になったっていいじゃない」。
そう言ってあげたい。
誰だって承認欲求がある。
私にとってはこれが、
唯一の、承認欲求を満たせる内容だったんだ。
それを、責める必要なんて、ないんですよね。
なんだか面倒臭い言い方(笑)をしていますが、
この続きは、以下の記事↓で!
また後日!
【7】「優等生意識」を持ったきっかけ
【8】「勉強できる」が、唯一の承認欲求を満たすこと。
【9】優等生ぶってると、叩かれる。いい気になるな。
【10】「できて当たり前」が叶わなくなった時。
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