評価に囚われている自分

じぶん理解


評価に囚われている自分

評価に囚われている自分がいることに気がついた。
それも半端じゃない。かなり囚われている。

起業については。
女性起業塾の同期メンバー、知人たちに、
認められるようなビジネスにしたいと思っていた。
笑われるような、呆れられるような形にだけは、
決してしたくないと思っていた。

それから、以前からの知人について考えた時は、
「教員を辞めてまで、起業したかいがあったね。」と
思われるくらいの、ちゃんとした形にしたいと思っていた。

「教員辞めたの、失敗だったんじゃないの。」
なんて思われることが、一番の恐怖だった。

創りあげるHPにしても、商品にしても、
「こんなの?」と知人に思われないような、ちゃんとした、立派なやつ。
だから、プロに頼んで、こだわってこだわって、こしらえようと思っていた。

それから、私は日々、焦ったりイライラしたりすることが多いんだけど、
その原因をしつこく追究していったら、
「他人に、だめなヤツと評価されたくない。」
という気持ちから来ていそうなことに気がついた。

様々な課題やブログやメールでの返事を書く時、
「なにこれ?」「イマイチ。」と評価されるようなものは、
絶対に作りたくない。

よそに出掛けている時、子どもたちが言うことを聞かなかったり、
騒いだりしてしまうと、自分の母親としての評価に、傷をつけられたような気がして、
人前だというのに、大きな声で怒ってしまう。

職場の人たちや知人に対して、丁寧な返事をしたり、
笑顔で挨拶したり、誠実な態度を心がけたりしているのは、
他人からの、自分に対する評価が怖いから。
陰で非難されるような存在にだけは、なりたくないから。
堂々としていたいから。

母親としての責任、家庭人としての義務、妻の役割、
社会に貢献したいと思う気持ち、一社会人としての役目。
・・・みんなみんな、

他人から評価されたい。
他人や社会に評価されることで、自分の存在意義を確認したい。
そんな気持ちから来ていたんじゃないだろうか。

子どもたちのために、
育児ストレスを抱えるお母さんたちのために、
家族のために、
仲間のために、

その全ての思いや行動が、相手矢印のようでいて、結局は、
「評価してもらいたい」という、自分矢印だったんじゃないだろうか。

他人や理想との「相対評価」からでないと、自分のことを、
認められない自分がいる。

評価も、義務も、責任も、誰かの存在も、いっさいがっさいを気にしないで、
ただ無心に、味わったり楽しんだりできる、時間がほしい。
自分がほしい。

そんな自分が全てじゃなくていい。
生活の中に、自分の中に、そういう部分が、あればいいのだと思う。

私が、ヨガや、自然や、瞑想などをやって、得たい、求めたいと
思っていたものは、そういうものだったのかも知れない。

または、時間や我を忘れるくらいに、
ダンスや演劇や運動に興じたいと思っていることも。

無心や無我の境地が、欲しいのかも知れない。

ただ、やる。
ただ、感じる。
ただ、そこに在る。

・・・そんな、感覚。

 

四葉さわこ

四葉さわこ

公認心理師。愛着トラウマが専門。カウンセリングルーム「アイバランス」代表。

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