【24】「善悪二元論」を手放し、「愛情の翻訳」をしよう!
▼今回の記事
「善悪二元論」を手放し、「愛情の翻訳」をしよう!
<覚書>
原因と結果の法則。鏡の法則。
原因=心の状態(想念)が、
結果=現実の出来事、人生を創る。
「人生の現実」は、自分の心を映し出す「鏡」である。
ただし、
「△△さんは、旦那さんの不満ばかり言っている。
だから、家庭がうまくいかないんだ。」
などと、人を裁いてはいけない。
「裁く者は、裁かれる」。心の状態は、現実となって返ってくる。
「他人と過去は変えられない。」
「けど、自分と未来は変えられる。」
「変えられないものを受け入れ、変えられるものに努力をしよう。」
人間関係で悩んでいる人は、相手を変えようとすると挫折する。
しかし、自分の接し方やとらえ方を変えることならできるはず。
自分を変えることに努力する。
ただし、「自分が悪いんだ」と、自分を裁いたり、自分を責めたりしなくていい。
良いも悪いもなく、「自分が創っている」という事実を、
中立に(ニュートラルに)とらえること。
すべてを学びに変える。
自分の人生の現実から、自分の心の状態を知り、自分の成長に役立てる。
「気づけてラッキー!ツイてる!」と考える。
そして、心はつながっている。
自分が変われば、相手自身は変わらなくても、相手と自分の関係は変わるもの。
自分の物差し(価値尺度)で「善悪」を考えない。
自分の「正しさ」にとらわれない。
人が100人いたら100通りの正しさがある。
客観的な「正しさ」など存在しない。
「正しさ」に固執すると戦いが起きる。
国どうしの戦争も、「正しさ」と「正しさ」の戦いだ。
「善悪」や「正しさ」にとらわれると、私たちは、人を許すことができない。
「何が正しいかを考えるのはやめよう。何が楽しいかを考えようよ。」
「何が正しいか」を考えると、人を許すことができない。
人を許すのと許さないのと、どっちが楽しいか?
自分の人生にとって、お互いにとって、楽しいのはどちらか?
「正しさ」を手放す勇気を持とう。
両親、配偶者など身近な人を許し、感謝することは、潜在意識の法則から
見ても、非常に大きなことである。
父や母を許してないということは、自分の人生の存在基盤
そのものに反発していることになる。
父や母を許していない人は、人生で
空回りの現実や破壊的な結果を生み出しやすくなる。
また、「愛情の翻訳」はできるもの。
子供にはぜひ、配偶者や祖父母のことについて、愛情の翻訳を
してあげてほしい。
<感想&気付き>
わたしは、「正しさ」に囚われている部分がある。
それから、「理想」にも、結構とらわれがちだ。
「正しさで人を裁いてはいけない。」
「客観的な正しさなど存在しない。」
この理解が、もう一つ消化できていない。
最近、実家の両親や母について、大きな気付きがあった。
だから鏡の法則を実践できた。
自分は、理想や周囲との比較でしか、両親たちを判断していなかった。
理想や周囲との比較で、しかも、至らない所、マイナスな所にばかり目が向いていた。
今になって思い出してみれば、感謝すべき所や尊敬できる所が、たくさんあったのに。
先週末、その事実がやっと、頭でなく、心におちた。
感謝の念と後悔が後から後から押し寄せて、
やっと、母に抱いていたわだかまりを昇華することができた。
そして、感謝の思いを告げることができた。
だけど・・・。
私はまだ、自分の子供たちに対しては、(自分の尺度からの)「正しさ」で、
裁いてしまっている。
急いでいる時に、「着替えよう」「トイレに行こう」と言っているのに、
一向に聞こうとしない態度に、どうしても腹が立ってしまう。
保育所に遅れてしまうからと、親である私がこんなに頼んでいるのに、
どうして言うことをきかないのか。
それから5歳の長男は、せっかく作った料理を、一口も食べない時がある。
「好き嫌い」や「気分」からだ。
(同じものでも、時と場合によっては食べている。)
それが、どうしても許せない。
デザートやおやつは欲しがることが、なおさら許せない。
(できるだけ、ご飯をほとんど食べなかった時は、やらないようにしているけど。)
「しつけ」と言うよりも、
そんな子供たちは「間違っている!」という思いで、
私は腹を立てている。
自分の物差し(価値尺度)で「善悪」を考えない。
自分の「正しさ」にとらわれない。
人が100人いたら100通りの正しさがある。
客観的な「正しさ」など存在しない。
「正しさ」に固執すると戦いが起きる。
・・・。
頭の理解と、心や腹に「おちる」のとでは、大きな違いがある。
実家の両親や母親に対しては、33年かかって、自分が親になって苦労してみて、
初めて「心から」気がつくことが出来た。
だけど、子供たちに対しては、
私はまだまだ、「頭」でしか、理解できていない。心や腹に、おちていない。
私はかなり、「正しさ」や「理想」に、囚われている。
そういうビリーフを、持っている。
そのことに深く気がつけた私は、ラッキー!と考えればいいのかな。
どうしても、そんな自分をついつい責めてしまうな。
あっ、まさに、そんな自分は「間違っている?」と考えてしまっているかも。
私は、「善悪二元論」が、染み付いているかも知れない。
野口さんのもう一つの著書を読んで、ビリーフの書き換えを考えたい。
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